Confesiones Ⅰ


 乾いた青草の匂いが長閑な田舎の村にも初夏を知らせる。古城を遊び場に走り回る子供の声。我が物顔で歩き回る山羊の声。遠くで我が子を呼び寄せる母の声。優しい音色に満ちたこの田舎の村に、二人の兄弟が暮らしていた。

「待ってよ、お兄ちゃん……!」
「早く早く、沈んでしまうよ」
 村をぐるりと囲む、中世の装いをそのまま残した低い城壁を飛び越え、二人の少年が駆けて行く。
 艶めく黒髪の下で薄っすらと色付いた頬に、何処か大人びて見える紅く熟れた唇。どちらの瞳もまるで陽にすかしたように輝く黒曜石。決して身なりが良い訳でも無いが、二人の周りには華が咲いたような煌めきがあった。道端で昼寝をしていた犬ですら目で追う程に見目麗しい少年達であるが、何より目を引くのは、その容姿がまったく同じ事である。彼等は親でさえ間違えてしまう位似通った容姿を持ち産まれた一卵性双生児。神が贔屓して造ったとしか言いようの無い程美しい少年が二人もいれば、それは嫌でも人の目を引く物だ。
 兄の名をルイス。弟の名をセシリオと言う。仲の良い二人は村でも評判の兄弟だった。うり二つである二人の唯一の違いは、その性格。しっかり者の兄と、甘えん坊の弟。相反したその性格は、より二人の絆を強める物だった。
 互いの足りない部分を補い合い、手を取り合いながら生きる、微笑ましい兄弟の姿が其処に息衝いていた。

 小高い丘の上にある古城の城壁によじ登ると、ルイスは遥遠くの空を仰ぐ。
「見てご覧よセシリオ、夕陽が沈むよ」
 言葉の通り、眼前に目一杯広がる空は真紅の色に染まり、山が燃えるように色付いて行く。しっとりと汗が浮き上気した頬もまた滲むように染まった。ルイスはこの村に沈み行く大きな夕陽が大好きだった。其の大好きな景色を愛でる横顔には何時も優しい色が浮かぶ。
 石造りの城壁の上に立ち上がり、大袈裟に手を広げ深呼吸をするルイスの横に腰を落ち着けたセシリオは、遠くの小道を見詰めながら小さく頷いた。何時も元気に笑う弟のそんな姿にルイスは慌てて同じように腰を下ろした。
「どうしたの」
 不安そうに覗き込んだルイスの目を見る事もなく、セシリオは細い指を小道に向ける。
「あれ、ジョンだよね」
 その指の先を追って、ルイスの顔も俄かに曇る。
「ああ」
 二人の視線の先には、山向こうへと続く道を歩む人影が三つ。その一つは同じ年頃である隣家のジョンである。他の二つは両親に目を合わせてはいけないとキツく言われている、都会の男達。
 遠くなって行く黒い影を見詰めながらセシリオはぶるりと身を震わせた。
「お兄ちゃん、僕ずっとお兄ちゃんの弟でいられる?」
 儚げに揺れる瞳の中で、太陽が燃え尽きて行く。ルイスは震える小さな手をやんわりと握り、優しい微笑みを浮かべた。
「セシリオと僕は、ずっとずっと一緒だよ」
 その言葉に不安を色濃く写していた小さな顔がパッと華やいだ。
「本当?だったら何も怖くないね!」
 嬉しそうに頬を寄せる弟に、同じ様に頬を寄せて、ルイスは薄闇に包まれて行く村にゆっくりと視線を投げた。
 ずっと一緒────。
 心の中で呟いた言葉を噛み締め、握った手に力を込める。その想いに答える様に、セシリオもまた強くその手を握り返した。
「僕ね、お兄ちゃんがいたら何にもいらない」
「僕もだよ、セシリオ」
 また、セシリオはその愛くるしい顔に華を咲かせる。

 二人は何時も一緒だった。二人は何時も、同じように互いを愛した。二人は何時も見え透いた未来に震え、互いをキツく縛る為の楔を打った。何があっても、離れぬように。

 長い夕暮れをふたりが見詰めていると、城壁の遊び場に一人の女が姿を現した。
「セシリオ、ルイス、晩御飯よ」
 聞き慣れた優しい母の声にどちらともなく走り出す。先に辿り着いたルイスが張り出した腹に抱き付くと、一足遅れのセシリオはルイスの小さな背中に抱き付いた。その何時もの光景に母は優しく微笑みかけ、柔らかい黒髪に包まれた二つの頭を優しく梳いた。
「私の可愛い坊や達。今日も沢山遊んだのね。お母さんの大好きなお日様の匂いがするわ」
 柔らかい微笑みに二人も自然と顔を綻ばせた。
 低い家屋の明かりが色を付ける夕闇の小道。お腹の大きな母を挟んで手を繋ぐ。暖かい母の愛情を感じながら、セシリオは澄んだ空を見上げ、ぽつりぽつりと歌を口ずさんだ。風が運ぶ初夏の匂いを嗅ぎながら、三人は歌いながら歩いた。

 苔生した家に辿り着くと二人は母の手を離れ、食卓でお手製のサングリアの飲む父の元へと走り寄った。二人のそっくりな息子達を交互に見やり、父は堀の深いその顔一杯に笑みを浮かべた。
「お帰り天使達」
「ただいま!ねえお父さん、さっきね────」
 言いかけたセシリオの足を、ルイスは慌てて小突いた。ハッとして口元を小さな手で覆う仕草に父は口元を緩めた。
「パパに隠し事かい」
「何でもないよ」
 ルイスがすかさずそう言うと、父はそれ以上追及してくる事も無かった。

 優しい母と陽気な父と四人の兄弟。そしてお腹の中の新しい命。幼い妹と弟の面倒を見て、パンを食べて、お日様の匂いのするシーツに包まり夜を越える。何時もの日常。決して裕福ではないこの家に産まれ、それでも日々を笑って生きる。
 二人は幸せだった。セシリオの隣にはルイスが、ルイスの隣にはセシリオが、何時もアンダルシアに注ぐ太陽のように笑っていたから。

 隣家のジョンがこの村から姿を消して暫く。今日も城壁の上からぼんやり村を眺めるセシリオの横で、ルイスは夏祭で踊る踊りのステップをたどたどしく踏んでいる。
「ああ、もう、上手くいかないなあ」
 緩いウェーブの掛かった髪を掻きながらそう呟いたルイスに視線を向け、セシリオはふと微笑む。そして再び晴れ渡る空に向き直ると、ゆっくりと瞼を閉じた。長い睫毛が柔らかい風に揺れる。セシリオもまた、この村が大好きだった。空も、人も、風も。何もかもに温もりが溢れるこの村が。
 薄く開いた瞳に、優しい色が宿る。
「お兄ちゃん、言ったよね、僕達、ずっと一緒だよ」
 セシリオの視線の先を辿り、ルイスも頬を伝う汗を拭うと強く頷いた。

 其の日家に帰ると、母も父も何時ものように柔らかい笑顔で二人を迎えた。何時も通りの筈の夕食は、何時もと少しだけ景色が違う。ズラリと並べられた珍しいご馳走に二人は瞳を輝かせた。
「わあ、凄い、僕こんなの初めてだよ!」
 はしゃぐセシリオの髪を撫で、母は幸せそうに瞳を細める。
「お誕生日おめでとう、セシリオ、ルイス」
 二人はその日、十五歳の誕生日を迎えていたのだ。家族八人が席に付き始まったささやかな誕生日パーティー。其処にあるものは笑顔だけ。甘い砂糖を塗したパルメラを頬張りながら、ニコニコと微笑むルイスを尻目に、セシリオは不自然な笑みを作る両親の顔をジッと見詰めていた。
「セシリオ、早く食べないとなくなっちゃうよ」
「うん……」
 気のない返事に小さく微笑みかけると、セシリオも漸く何時ものような眩しい笑顔を見せた。

 母の作ったケーキを食べて、笑顔の絶えない誕生日パーティーを終え、二人は一緒の布団に潜る。ルイスは何時ものようにセシリオの小さな手を握り目を閉じた。夜風に運ばれた青草の匂いがゆったりと気持ちを落ち着けてくれる。ふと繋いだ手に力がこもり、ルイスは慌てて閉じ掛けた目を開いた。
「セシリオ?」
 薄い月明かりに浮かび上がる瞳が、不安気に揺れていた。
「お兄ちゃん……僕達……」
「大丈夫、ずっと、一緒だよ」
 その先の言葉を聞く前にルイスは強く言葉を掛ける。セシリオはそんな気丈な兄に向けて、小さく微笑んで見せた。
「うん」
 二人は知っていた。貧しい家の子供が、年頃になれば売られて行く事を。そして二人も、隣家のジョンの様に、この村を去る運命にある事を。
 涙で滲んだ瞼を閉じて互いの小さな額に口付けを落とし、同じ様に澄んだ月夜を見上げた。

 大きな男に手を引かれ二人は小道を行く。振り返れば其処に、見慣れた石造りの城壁が蛇の様に走る、大好きな村。
 セシリオがぽつりぽつりと口遊んだ歌にルイスが声を重ねる。二人は夕暮れに染まる空を見上げ、繋いだ手に力を込めた。心に打った楔が、決して壊れてしまわぬように。